Okada_Sugimoto「恋のソビエト逃避行」の主役二人、岡田嘉子と杉本良吉

岡田嘉子wikipedia:岡田嘉子より)

ソビエト逃避行

 1937年(昭和12年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。1937年(昭和12年)暮れの12月27日、二人は上野駅を出発。北海道を経て翌1938年(昭和13年)1月3日、2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。この事件を機に日本では1939年(昭和14年)に特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が制定された。しかし不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPU(後の KGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。

 拷問と脅迫で1月10日には、岡田はスパイ目的で越境したと自白した。このため、杉本への尋問は過酷を極め、杉本も自らや佐野碩、土方与志、メイエルホリドをスパイと自白した。

 1939年(昭和14年)9月27日、二人に対する裁判がモスクワで行われ、岡田は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された。杉本は容疑を全面的に否認、無罪を主張したが、銃殺刑の判決が下された。10月20日、杉本は処刑された。12月26日、岡田はモスクワ北東800キロのキーロフ州カイスク地区にある秘密警察NKVDのビャトカ第一収容所に送られた。岡田はこの収容所で自己を取り戻し、ソ連当局に再審を要求する嘆願書を書き続けたが、無視された。このラーゲリに約3年間収容された後、1943年1月7日からモスクワにあるNKVDの内務監獄に収容され、約5年後の1947年12月4日に釈放された。ソ連当局は釈放前にこの5年間の虚構の経歴を作り上げた。モスクワのNKVD監獄での彼女の活動、任務は明らかではないが、極秘の任務に属したとみられている。

 杉本の銃殺は嘉子の晩年になってようやく明らかになり、それまではずっと「獄中で病死」とされていた。(ただし、後述の今野勉の調査で嘉子が1972年の里帰り以前に銃殺の事実を知っていたことは確実とされている)。また、彼らの亡命は世界的演出家メイエルホリド粛清の口実の1つにされた。嘉子はソ連入国後の初期(戦後あたりまで)の事を後年語っているが、実際は話とは違い、いくつかの刑務所に計10年近くも幽閉されていた事や、話していた事は(嘉子の意思に関係なく)釈放の時に幽閉の隠蔽として指示された作り話だったことが、嘉子の死去後の1994年12月4日にNHK-BS2で放映された『世界・わが心の旅 ソビエト収容所大陸』(レポーター・岸恵子)の現地取材により明らかになっている。この番組のディレクターである今野勉は、この内容を『中央公論』1994年12月号に「岡田嘉子の失われた十年」として発表した。釈放後も日本へはあえて帰国をしなかった。


杉本良吉wikipedia:杉本良吉より)

人物・来歴

 東京生まれ。東京府立第一中学校卒業。1924年4月 北海道帝国大学農学部予科に入学するも中退、1925年4月 早稲田大学文学部露文科に入学するも同じく中退。

 1927年から前衛座などのプロレタリア演劇の演出に当たる。同年、知り合いのロシア人の家でダンスホールに勤める杉山智恵子と知り合い、のちに結婚する。1935年新協劇団に入り、1937年『北東の風』(久板栄二郎)などを演出する。病身の妻がいたにもかかわらず、1936年(昭和11年)8月、演出した舞台の女優・岡田嘉子と激しい恋におちる。

 1937年(昭和12年)日中戦争開戦。日本共産党員である杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。妻を置いて1937年(昭和12年)暮れの12月27日、岡田嘉子と上野駅を出発。北海道を経て翌1938年(昭和13年)1月3日、2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。この件について、のちに宮本顕治が、1932年に今村恒夫と杉本をコミンテルンとの連絡のためにソ連へ派遣しようという計画があり、二人は小樽まで行ったが、船がうまく調達できずに引き返したことがあったと語っている。杉本はソ連在住だった演出家の佐野碩や土方与志を頼るつもりであったといわれる。だが佐野と土方の二人は前年の8月に大粛清に巻き込まれて国外追放処分になっていたが、杉本はそれを知らなかった。この点について、千田是也は「自分たちの新築地劇団のグループは前年9月にその事実を知っていたが、当時新築地劇団と演劇理論などで対立していた新協劇団の杉本はこの事実を知らなかった」と後に述懐している。

 この一件は、駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。この事件を機に日本では翌1939年(昭和14年)に特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が制定された。しかし、不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で岡田は杉本と離された。時は大粛清の只中であり、杉本と岡田はスパイとして捕らえられ、GPU(後のKGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。

 杉本は、ソ連当局の拷問を伴った取り調べに「自分はメイエルホリドに会いに来たスパイで、メイエルホリドの助手である佐野もスパイである」という虚偽の供述を強要された。杉本は後の軍事法廷ではこの供述を虚偽と語り、「そのような嘘をついたことを恥ずかしく思う」と述べたが、スパイ容疑で1939年に銃殺刑に処せられた。

 ソ連崩壊後に明らかにされたメイエルホリドの供述調書では佐野の名前は頻出するが、杉本(本名である吉田)の名前はほとんど出ておらず、起訴状にもスパイ容疑を「裏付ける」供述者4人の1人として記されているに過ぎない。この点に関してメイエルホリド研究者の武田清は「杉本の強制自白がメイエルホリド粛清の口実になった」という名越健郎の見解を否定し、メイエルホリドが粛清の対象であることは何年も前からスターリンの方針であり、たまたま日ソ関係が最悪の時期に密入国してメイエルホリドや彼と結びつく佐野の名前を口にした杉本がその「最後の仕上げに利用されただけ」だと記している。

 1959年名誉回復。しかし銃殺されたことは長らく日本では知られておらず、病死とされてきた。グラスノスチの進行の結果、ようやく知られるようになった。ただし、岡田嘉子が1972年の日本への「里帰り」以前にこの事実を知っていたのは確実であると、岡田の没後に現地で調査・取材をおこなったテレビディレクターの今野勉は述べている。


感想

 共産主義にかぶれた女優と演出家が不倫の果てにソ連へ亡命、しかしそこで待っていたのは投獄と処刑という地獄だった・・・というなかなか刺激的なこの事件。1990年代に少し採り上げられただけで、2000年代になって以降は完全に忘れ去られているのは(左巻きが多い)マスコミにとってあまり知られて欲しくない事件だからでしょうか?お二人のこの行動力(だけ)は賛辞に値しますが、処刑された杉本は自業自得だとしても、生かされた岡本はソ連共産党による何らかの宣伝工作、もしくは情報提供者として利用されたのは確実で、そのことが負い目となって日本に帰国永住できなかったのでは?と想像します。

 このように「世間知らずの夢見がちな理想主義者が理想に燃えて行動を起こすとロクなことにならない」といういかにもありがちなサンプルではありますが、その「理想」が反原発や環境問題、差別や移民、ジェンダー問題にすり替わっただけで、共産主義の理想が死滅した現在でも、やはり同じような「世間知らずが理想に燃えて行動を起こすとロクなことにならない」人たちが世界中に溢れかえっています。

 さらに悪いことに彼ら彼女らには「自己客観視」する能力が絶対的に不足しています。「美しき理想や優しさを説く私ってかっこいい、素敵」と「自分酔い」に陥る姿はそれはそれは気持ち悪いものですが、「自己客観視」できない彼ら彼女らにはそれを察知する能力がありません。こういう手合いに何を言ったところで意思疎通など不可能なので、無視するか排除するしかないでしょう。

 そしてそれをいっそう助長させているのは、そういった理想主義者を食い物にして肥え太る「政治・思想団体」。おかげさまで彼らはおいしい寄付金ビジネスを展開中。「地獄の沙汰も金次第」な連中が「美しき理想の世界を語る」姿に失笑を禁じえません。「現実主義者が理想をエサに、理想主義者を騙す構図」は形を変えて未来永劫存在し続けるでしょう。