FokkerAnde1972
事故機と同型機のフェアチャイルドFH-227D

ウルグアイ空軍機571便遭難事故wikipedia:ウルグアイ空軍機571便遭難事故より)

概要

 ウルグアイ空軍機571便遭難事故(ウルグアイくうぐんき571びんそうなんじこ、英語: Uruguayan Air Force Flight 571)は、1972年10月13日にウルグアイ空軍の571便機がアンデス山脈に墜落した航空事故である。乗員乗客45名のうち29名が死亡したが、16名は72日間に及ぶ山中でのサバイバル生活の末に生還した。この出来事は奇跡的として多方面からの注目を浴びるが、同時に生存者が遭難中にとった行動をめぐり物議を醸すことともなった。

事故の流れ

1972年10月12日(木)
 ステラ・マリス学園 (Stella Maris College) のキリスト教徒からなるラグビー選手団とその家族や知人を合わせた一行40名が、チリのサンティアゴでの試合に向かった。一行と乗員5名の計45名はウルグアイ空軍の双発ターボプロップ機フェアチャイルドFH-227Dでモンテビデオにあるカラスコ国際空港を出発したが、アンデス山脈での天候不良のため、アルゼンチンのメンドーサで一泊することとなった。

10月13日(金)
 飛行機の上昇可能高度上限が9,000 m (30,000 ft)である上に悪天候であったために、メンドーサから直接アンデス山脈を越えてサンティアゴまで飛行することは出来なかった。そこで、メンドーサからアンデス山脈にそって南下し、山脈の切れ目であるプランソンを西に通過してクリコのすぐ南の地点で山脈を抜け、そこから山脈のチリ側を北上してサンティアゴに向かうこととなった。天候が回復したため、飛行機は午後にメンドーサを出発してすぐに山脈の切れ目を通過していた。ここでパイロットはサンティアゴの航空管制官に対して現在地点がクリコであると通知したが、これは後に致命的な過ちだったと判明した。コースが雲に覆われていたので、パイロットは標準的な通過時間を計算することで西から北に方向を変えるタイミングを図った。しかし、実際には、強い向かい風で機体が減速していたために、山脈の切れ目を抜けるには通常よりも長く時間がかかるはずだった。そのため、山脈の西側に十分に達していないうちに北上を開始した。

 山々を深く覆う雲の中に突入して間もなく、当時は無名だった峰と1度目の衝突をした。この峰は後にセレール峰 Cerro SelerまたはGlaciar de las Lágrimas、Glacier of Tearsと名付けられた。衝突地点はソスネアド峰 (Cerro Sosneado) とティンギリリカ火山の間の人里はなれた山地であり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点だった。吹き飛んだ右翼で垂直尾翼が切り取られ、胴体後部に穴が空いた。別の峰との再度の衝突で左翼も無くなり、機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった。機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面に衝突し、険しい崖を滑落して最終的に雪に埋まって停止した。また機体の尾部は多くの荷物を積んだまま胴体とは分離して別の場所へ滑落した。乗客3名と乗員2名が機外に放り出され、9名が即死し、負傷が元で初日中に3名が死亡した(死亡12名、行方不明5名、生存28名)。

 残った28名は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。雪眼炎を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2名が航空機の支柱で添え木を作った。

 ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3ヶ国から成る捜索隊が捜索を開始したが、フェアチャイルド機の外装は白かったので、積雪に混じり合い、空からの発見は非常に困難だった。捜索は開始から8日後の10月21日に中止された。墜落から11日後に、生存者のロイ・アルレーは、機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞いた。ピアス・ポール・リードは著書『生存者(原題: Alive: The Story of the Andes Survivors)』(生存者のインタビュー文書を題材にしている)でこれに触れている。「ニュースを聞くと、ロイの周りに居た生存者たちは、パラード以外全員すすり泣き、祈り始めた。パラードは冷静に西にそびえる山を見上げた。グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見て、彼らが何を聞いていたかを悟った。そして、スーツケースとラガーシャツで薄暗い胴体の入り口へ登り、振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。「朗報だ! ラジオを聞いた。捜索が中止された」機体の中は沈黙していた。皆は見込みのない状況に涙した。パエスは怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。「その意味するところは」とニコリッチは言った。「我々が自分たちでここを脱出するということだ」この1人の少年のおかげで、完全な絶望に陥ることは防がれた」

 生存者たちは板チョコレート数枚と、その他のスナック菓子、ワイン数本という少量の食料を持っていた。墜落後の数日間、彼らはこの食料が尽きないように少量を分配した。救援を求めるために、コックピット無線機を使用しようとしたが、無線機の出力が全くないことが判明した。その後死亡する航空機関士は、墜落後に脱落した機体の尾部にバッテリーが積み込まれていたために電源がなくなり通信ができないと説明した。

10月15日(日)
 アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、空になったワインボトルに雪を詰め、金属片で突いて雪を溶かして水を溜める工夫をした。フェルナンド・"ナンド"・パラードは意識を回復し、危篤状態にあった妹スサーナを看病した。正午以降、3機の航空機が通過するのを目撃した。少し遅い時間に飛来した1機は機体の残骸の至近距離を通過し、翼を振った。生存者たちは、発見されたと信じた。午後に、ラグビーチームのキャプテンのマルセロ・ペレスは、支給された食物の一部が誰かに食べられていることを発見した。

10月16日(月)
 ロベルト・カネッサは、酷い傷を負ったラファエル・エチャバーレンのためにハンモックを組み立てた。アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、足にシートのクッションを取り付けることで雪上を歩けることを発見した。

10月17日(火)
 カルロス・パエス、ヌマ・トゥルカッティ、ロベルト・カネッサ、アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、脱落した尾部を探そうとして墜落地点から出て尾根の反対側に向かったが、結局何も見つけることが出来ずに体力を消耗して引き返した。

10月21日(土)
 スサーナ・パラードが彼女の兄であるナンドの腕の中で死去した(死亡13名、行方不明5名、生存27名)。

10月22日(日)
 配給管理された食糧が尽き、自然植生植物も動物も雪で覆われている山には存在しなかった。機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。生存者のひとりナンド・パラードの著書で2006年に出版された『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還』ではこう綴られている。「高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった」乗客は全員カトリック教徒だったが、ピアス・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐(せいさん)と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。

10月23日(月)
 生存者たちは、機体の中で発見したラジオを通して、捜索隊が自分たちを発見出来ないまま捜索を中止したことを知った。雪崩の後に、数人の少年たちは生存の唯一の手段が山頂に登って救援を求めることであると執拗に訴えた。機体はクリコを通過したという副パイロットの主張により、一行はチリの農村部が西へわずか数マイルの地点にあると仮定した。少年達の中で最も強健で健康状態の良かったヌマ・トゥルカッティ、ダニエル・マスポンス、グスターボ・セルビーノの3名が提案に基づき出発し、雪上に残っている機体が滑り落ちた跡を登った。

10月24日(火)
 3人は、機体の尾部を発見しようとして山を登った。途中で翼の断片と機外に放り出された行方不明者5名(乗客3名、乗員2名)の遺体を発見した(死亡18名、生存27名)。尾部は発見出来なかった。厳寒の高山を夜通し歩くのは困難が多いと考え、遠征を思いとどまり、山頂に一泊して機体に戻った。

10月29日(日)
 生存者たちが機体の中で眠りにつこうとしていたとき、雪崩がすさまじい勢いで機体の中に流れ込み、機体の中で横たわっていた全員を埋め尽くした。比較的浅く埋まった人は、雪で埋まった人を救おうとしたが、19人の生存者を残して8人が死亡した(死亡26名、生存19名)。3日間、機体は数フィートの雪の下に埋まり、生存者たちは非常に狭く閉じ込められた中で生き延びた。

10月30日(月)
 猛吹雪で機外に雪が蓄積されていく中、狭い機内に閉じ込められたままヌマ・トゥルカッティの誕生日を祝った。

10月31日(火)
 ヌマ・トゥルカッティと同様に、カルロス・パエスの誕生日を祝った。

11月1日(水)
 嵐は去り、空は晴れた。生存者たちは機内の材料で雪を掻き出す道具を作り、それを使って機内から雪を取り除き、遺体を掘り出した。また、この日はアルフレド・"パンチョ"・デルガドの誕生日でもあった。ロベルト・"ボビー"・フランソイスとコチェ・インシアルテは山を100メートルほど登ったが途中で引き返した。数日後、ヌマ・トゥルカッティとホセ・ペドロ・アルゴルタは機体の翼に登った。

11月5日(日)
 ナンド・パラードとロベルト・カネッサの他に誰が最終的な救助を求める遠征に同行するかを決めるために、精神的・肉体的なテストをすることとなった。このために、カルロス・パエス、ロイ・アル、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人が山の下側に2日間遠征した。3人は、機体の後部ドアと、アルミニウム容器2個、コーヒーの残り3分の1を発見した。日没までに機体へ戻るのは不可能だった。パエスとアルレーは遠征の苦しみに耐えられず、ビシンティンが同行することになった。

11月15日(水)
 アルトゥーロ・ノゲイラが足の負傷の炎症が元で死亡した(死亡27名、生存18名)。遠征隊は、機体を出て西に向かうつもりだったが、気象条件が悪化し、3時間後に引き返した。

11月17日(金)
 数回の遠征挑戦のあとに、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサとアントニオ・"ティンティン"・ビシンティンを含む最終グループが結成された。ロベルト・カネッサの主張で、3人はまず、尾部を発見するために山脈の東へ向かおうとした。

11月18日(土)
 3人の遠征隊は北西に向かって進み、機体の尾部を発見した。スーツケースが数個あり、中身は煙草と残飯と衣服とボール箱だった。また残飯および、漫画雑誌、衣服、煙草を発見した。アントニオがポールに巻き付けられた断熱材を発見した。これは、後に彼らの脱出の鍵となった。尾部の内部でよく保存された状態のバッテリーを発見した。3人はそこで夜を過ごした。機体では、ラファエル・エチャバーレンが死亡した(死亡28名、生存17名)。

11月19日(日)
 バッテリーが非常に重かったので、バッテリーを機体まで運ぶ代わりに機体から無線機を尾部まで持って来ることに決めた。3人は機体に戻り、スーツケースの山から発見したものを仲間に示した。

11月23日(木)
 ロベルト・"ボビー"・フランソイスの誕生日で、生存者たちは、彼に煙草1箱を誕生日プレゼントとして与えた。ロベルト・カネッサとナンド・パラードは機体から無線機を取りはずした。

11月24日(金)
 アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンおよび、ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、ロイ・アルレーが、長く苦しい距離の中、1時間半かけて無線機を尾部まで運んだ。到着すると、雪解けによって前回より多くのスーツケースが露出していた。ロイ・アルレーは無線機の修理に取りかかった。

11月25日(土)
 少年達が遠征から帰還した後、尾部に同行したロイ・アルレーは気が進まないながら修理を手助けしたが、より若いひとりと電気工学の専門家が11月25日から11月29日の間に修理を続けた。

11月26日(日)
 持ってきた食料が尽きたので、パラードとビシンティンが機体へ戻った。アルレーとカネッサは、無線機の修理を続けるために尾部に残った。

11月28日(火)
 パラードとビシンティンがより多くの食料を尾部に運んで来た。生存者たちはトランジスタラジオによってウルグアイ空軍のC-47が彼らの捜索を再開したことを知った。

11月29日(水)
 無線機が修理出来ないことが判明したので、彼らは機体に引き返した。そのときはわからなかったが、無線機はバッテリーで駆動していたのではなく、機体のエンジンが発生させる電力で動作していた。西に向かうことが唯一の生存の方法と彼らは考えていたが、厳寒の夜を数日間乗り切らなければならなかった。寝袋を作ることが提案された。

12月
 生存者のひとりナンド・パラードは、34年後の2006年の著書『アンデスの奇蹟-南米アンデスの高山に墜落した旅客機 生還者みずからが語る72日間の真実』でこのときの寝袋について綴っている。「2度目の挑戦では、日没後の外気への露出から身を守らなけらばならなかった。我々が死にそうなほどに夜はまだ寒く、一年のこの時期、昼間でも、広く露出したスロープでは避難出来ないことは分かっていた。凍死することなく長い夜を乗り切る方法が必要だった。我々は、尾部で断熱材が巻き付いたポールを発見して解決した。(中略)遠征について皆で議論し、一緒にパッチを縫うことで、大きく暖かいキルトを作れると分かった。我々はキルトを半分に折り重ね、継ぎ目を縫い合わせて、3人が遠征に耐えられるだけの断熱性のある寝袋を作った。3人の体温が断熱布によって保持されるなら、最も寒い夜を乗り切ることが可能かも知れなかった。カルリトス・パエスが作業をやってみると言った。彼は、少年だったときに母から裁縫を教わっていた。母の化粧箱から裁縫用の針と糸を見付けて作業に取りかかった。(中略)彼は他の生存者たちにも裁縫を教え、交代で作業を行った。(中略)我々の中で、コチェおよび、グスターボ、フィトが最も仕立て作業が速いことが分かった」

12月9日(土)
 ナンド・パラードの誕生日で、尾部で見付かった葉巻を他の生存者たちが誕生日プレゼントとして与えた。

12月11日(月)
 捜索機が上空を通過するときに備えて、雪の中にスーツケースで大きな十字を描いた。アルフレド・"パンチョ"・デルガドの親友であったヌマ・トゥルカッティが死亡した(死亡29名、生存16名)。

12月12日(火)
 寝袋の完成後、ロベルト・カネッサは出発をためらっている者を最終的に説得し、ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人がチリへ向かう谷を見つけるために最終的な遠征に出発した。パラードが先頭に立ち、行進速度を緩めるために頻繁に声をかけた。登りの行程は、厳しい長旅となった。夜、巨大な岩の横で仲間たちが縫い上げた寝袋で眠った。厳寒であったが、寝袋によって数夜を生き延びることが出来た。

12月13日(水)
 カネッサは、渓谷を見て、それが道路であると考えたが、そのときはそのことを他の2人に話さなかった。グループは登り続け、午後までには、睡眠のための前日と同じような大きな岩に達した。カネッサが道路について言及し、引き返すことを主張したが、パラードは異なった意見を述べた。議論は続いたが、決断を下すことなく彼らは眠りについた。機体の食料の備蓄が底を突きかけ、グスターボ・セルビーノとアドルフォ・"フィト"・ストラウチは死体を探しに機体を出て、1体を発見したが、2人はそれを機体に回収することが出来ないほど疲れていた。

12月14日(木)
 ビシンティンとパラードは登山を続けたが、カネッサは道路と考えた地点を観察するために宿泊地点から動いていなかった。パラードたちは山の頂上に到達したが、パラードはその光景に息を飲んだ。彼の前に見渡す限り広がっていたのは、より多くの山々だった。山脈は眼前に小さく「Y」の文字のように遠くまで広がり、当初の計画であった山脈を越えて救助を求める望みは絶たれた。食料の消費を最小限に抑えるために、パラードとカネッサが遠征を継続し、ビシンティンは自分の食料を2人に預けて墜落地点に戻った。帰りのルートは、下るだけだったし、壊れた機体の部品から作成したソリがあったので、1時間しかかからなかった。残った2人はその晩はその場で眠った。機体では、カルリトス・パエスとホセ・ペドロ・アルゴルタがより多くの遺体を探しながら谷を通って登った。1体を発見し、腐敗を防ぐために雪で覆った。

12月15日(金)
 パラードとカネッサは、遠征に出発してから9日目(12月20日)の昼間の休息以外は、再開から7日以上歩き続けていた。朝、機体に残った13人の男たちが何かが山を滑り降りて来るのを発見した。初めは岩石だと思ったが、ビシンティンが機体の座席を利用したソリを使っていることがわかった。到着と同時に、ビシンティンはカネッサとパラードがまだチリに向かって遠征を続けており、ビシンティンの分の食料を2人に預けたと説明した。前日にアドルフォ・"フィト"・ストラウチ、グスターボ・セルビーノ、ホセ・ペドロ・アルゴルタが外で遺体を探している間に、他の生存者たちがラジオを聴き、彼らがスーツケースで雪上に描いた十字をウルグアイ空軍のC-47が発見したことを知った。

12月16日(土)
 カネッサとパラードが3時間を掛けて峰を登り、最も良い下りのルートを捜索した。午後にソリでかなりの距離を滑降した後に2人は眠りについた。

12月17日(日)
 機体の生存者たちは、彼らがスーツケースで雪上に描きウルグアイ空軍のC-47によって発見された十字が、アルゼンチンの気象学者が融雪量測定のために円錐形のマーカーで描いたものであると公表されたことに驚愕した。パラードとカネッサは、決めたルートの通りに進み、正午までに山のふもとに達して、谷へ進んだ。ある場所で休息したとき、近くの小川にコケやアシが生えているのを発見した。それは彼らが遭難以来初めて目にした植物だった。カネッサは、ハーブを摘んで食べた。

12月18日(月)
 パラードは、谷の下方から登っているとき、先のものを見ようとして足を速め、カネッサを置き去りにした。進んでいくと、雪道は終わり、植物がたくさん生い茂っていた。小川は西に向かって注ぎ、動物がいる可能性もあった。彼らはその光景に驚いた。休息しながら川に向かって歩き続けた。カネッサはしばらくしてサングラスを落としたことに気づいた。それがなければ、雪に反射する太陽の光で網膜が焼かれ、失明する危険があった。2人はサングラスを見つけるために一旦引き返し、サングラスを発見後、再び川に向かって歩き続けた。夜、彼らは機体を出発して以来初めてぐっすりと眠ることが出来た。

12月19日(火)
 朝、2人は牛の群れを発見した。これは彼らの歩みの希望となった。次に、文明の最初の兆しである空のスープ缶と蹄鉄を発見した。その後、多くの牛と切り倒された木を見たとき、文明圏が間近であることが確かだと考えた。彼らは救出されることを確信し、熟睡した。

12月20日(水)
 彼らは、起床した後、リュックサックから寝袋など不要になったものを捨てて歩き続けたが、その後文明の兆しを発見出来なかった。カネッサが吐き気を催したので、パラードが彼の荷物を代わりに担いだ。最終的に、彼らは石の柵囲いまで到達し、そこを寝床に決めた。眠る前に、パラードは自分たちが進もうとしているルートが2番目に発見した川で遮られたことに気づいた。胃けいれんを起こしていたカネッサは、薪を拾っていたとき、川の向こう岸に居る馬に乗った男性のようなものに気がつき、近眼のパラードに大声で斜面を走り降りるように言った。パラードは、カネッサが叫んだのを聞いて川に向かって走ったが、男性を発見することは出来なかった。パラードは、最初はカネッサの想像にすぎないと思っていたが、少しして、川の向こう岸で誰かが叫んでいるのを聞くと同時に、馬の背にウアッソの男性が3人乗っているのを確認した。カネッサとパラードは、川に走り寄り、自分たちが絶望的で、助けを求めていることを身振りで示した。乗り手の1人は、馬を抑制しながら何かを彼らに大声で叫んだ。乗り手の1人、セルヒオ・カタランは、2人に、「明日」と叫んだ。明日助けられれば、それで十分だった。2人はこの時点で救助されることを確信し、歓喜に震えながら川のそばで寝入った。出発から9日が経過していた。

12月21日(木)
 機体では、カルロス・パエス、ダニエル・フェルナンデスが遠征隊が救援を求めることに成功したという兆しを待っていた。セルヒオ・カタランが川に来た。紙と鉛筆を結びつけた石を川の向こう岸の2人に投げた。パラードがそれを拾って読むと、「すぐそこに到着するように人間を送った」と書かれていた。パラードは書いて投げ返した。「私は山に墜落した飛行機から来ました。ウルグアイ人です。私たちは10日間歩いています。墜落地点に負傷した友人を残しています。まだ飛行機に14人の負傷者が居ます。私たちはここから早く脱出しなければなりませんが、どうしたら良いのかわかりません。ほんの少しの食料もありません。私たちは非常に衰弱しています。あなたはいつ私たちを救出しに来て下さるでしょうか? 私たちは歩くことが出来ません。ここはどこですか? SOS」セルヒオ・カタランはその文章を読むと、2人に身体全体で大きく了承の意を示した。カタランは、馬を走らせ、数時間後に2人の元に到着した。カネッサとパラードは遭難事故について簡潔に説明した。カタランは、貪欲に食事を求める2人に小屋とパンを与えた。カタランが税関検査官へ2人の手紙を見せ、税関検査官たちがサンディアゴから3機のヘリコプターで出発したとカタランは2人に伝えた。機体の生存者たちは、2人の遠征隊が発見され無事に救出されたというニュースをラジオで聞いた。

12月22日(金)
 朝まで山が霧に包まれており、ヘリコプターを飛ばすことが出来ないことにパラードとカネッサは、愕然とした。10月13日に起きた墜落事故を生存者たちが厳しい環境下で生き延びたというニュースは世界中の報道機関を注目させ、その後関係者の下には洪水のようにレポーターたちが訪れた。パラードとカネッサは朝食を摂り、増加する報道陣に会った。彼らは熱心に質問に答えたが、どうやって生存できたかについては話すのを避けた。午後に、小さな村(ロス・マイテネス村)にヘリコプターが到着した。同乗したパラードによって誘導され、フェアチャイルド機が横たわる墜落地点までの谷を飛び、生存者たちは2人の捜索隊、救出登山家によって救出された。救出されたとき、生存者の数は事故直後の半分以下の16名に減っていた。ヘリコプターの到着は、歓喜に満ちた14人の生存者たちに歓迎された。1回目に救助されることとなった追加の最大積載人員である6人は、救出されることを山に対して感謝した。生存者たちがロス・マイテネス村に到着したとき、彼らは喜びの頂点にあった。草を抱擁し、笑い、転がり回り、自分たちの救出を祝った。数時間後に、全員がサンフェルナンドのセント・ジョン聖病院へ収容された。2回目の救出飛行は夜間にすることになり、さらに、霧に覆われたアンデス山脈に衝突する危険があるため翌朝まで遅れた。残りの8人の生存者たちは機体の中でもう一夜眠らざるを得なかったが、毛布や衣類、食料と水を手にし、サポートとして医療班と登山家が共に墜落地点にいた。

12月23日(土)
 午前10時、救助ヘリコプターが機体に残る8人の生存者たちのために墜落地点へ戻った。16名の生存者全員が救助され、喜びの場面が再びロス・マイテネス村で繰り返された。2番目のグループは、最初の救助者グループと異なり、まずチリのコルチャグアに輸送されてからサンティアゴの国民健康保険病院へ輸送された。生存者の全てがサンディアゴの病院に収容され、高山病、脱水症状、凍傷、骨折、壊血病、栄養失調の治療を受けた。生存者6名はすぐに退院し、シェラトンホテルへ行った。ロイ・アルレーとハビエル・メトルは、コチェ・インシアルテとアルバロ・マンヒーノが先に収容されていた4人部屋に引き留められた。19時に、アルレー、メトル、インシアルテ、マンヒーノ以外の生存者は皆、シェラトン・デ・サン・クリストバルで再会した。

12月24日(日)
 4人が病院から退院し、シェラトンホテルで他の皆と合流した。ロベルト・"ボビー"・フランソイスとダニエル・フェルナンデスはモンテビデオに帰り、それ以外の14人は、クリスマス・イブを一緒に祝った。生存者たちは、救助直後には機内に持ち込んでいたチーズを食べて生き延びていたと説明していたが、家族と詳細かつ内密に議論し、遺体を食べざるを得なかったことを公にしようと考えた。

12月26日(火)
 グループは別れ、パラードはサンティアゴを離れてビナ・デル・マールの家に引っ越した。生存者たちは、モンテビデオへ戻るときに記者会見を行うことを計画していた。しかし、機内に残されたままの切り分けられ保存された遺体の写真が救助隊に同行した山岳ガイド等によってリークされ、サンティアゴの新聞「El mercurio」は一面トップで生存者たちの人肉食に焦点を合わせたセンセーショナルな記事を発表した。

12月28日(木)
 生存者たちは、モンテビデオに到着し、ステラ・マリス大学で記者会見を開催し、72日間の生存の試練について説明した。年月を経て、この出来事に関する本2冊と映画2本と公式サイトができた。まだ非常に衰弱していたロイ・アルレーはチリに残り、数日後に帰宅した。救助隊員は、墜落地点から800メートルほど離れた地点に死者の遺体を埋め、石を積み重ね、中心に鉄製の十字架を建てた。機体内に残っていた遺体の残骸は野次馬による損壊を防ぐために焼却処分された。


感想

 ドキュメンタリー映画『アンデスの聖餐』(1975年)や映画『生きてこそ』(1993年)で有名な、航空ファンなら誰もが知っているこの事故ですが、とかく「人肉食に対する是非」が話題になりがちです。しかし個人的に興味があるのは「人肉食」でも「事故原因」でもなく「生き残った人たちによるサバイバル方法」です。

 まずひとつ、幸運なことがあったように思えます。それは副パイロットが生存(後に死亡)しており、「機はクリコを通過した」という証言が得られたことです。それはつまりクリコ通過後北上中に墜落したという意味であり、遭難者はチリの農村部が西へわずか数マイルの地点にあると仮定できました。そして「北上中」だったことは機体が北向きに墜落したことを意味し、遭難者たちは実際の現在位置は大きく東(アルゼンチン側)にずれていたにせよ、方角はしっかりと把握していたということになります。

slide_7
事故機のルート図。クリコを通過する前に北に進路を変えてしまい、予定のコースより大きく東にずれていたことがわかる。

 地理に詳しくなくても、アンデス山脈は南北に南米大陸を貫いていることは知っているはずだし、東のアルゼンチン側はさらなる山が連なっていると考えたはずです。つまり、生き延びるためには西を目指すしかなく、それは目の前の西の尾根を超えなければならないことを意味していたのです。しかし、東に向かえば歩いて1日の距離に山小屋があったことが後に判明しています。これについては判断が難しいですが、「山小屋」という「点」より「チリの農村部」という「面」を目指したのは、距離は遠くても可能性という意味では正しかったのではないかと思います。

 おそらく墜落直後から機体の方向や太陽の動きから方角を正しく把握していたのでしょう。現に遠征隊を迷わず西に向かわせています。しかし尾根に登った遠征隊が見たものは「より多くの山々」、つまり尾根に登れば農村が見えると確信していたはずが、そうではなかったのです。このことによって、飛行機が想像よりも東側、よりアンデス山脈の深い地点に墜落していたことを知るのですが。それにひるまず2名は山を降りることを決断します。道らしきものが見えたのもその決断を後押ししました。

ウルグアイ空軍機571
ウルグアイ空軍機571便墜落事故の遭難者2名が自力で下山したルート図(クリックで拡大)

 彼らのルートマップを見ると、尾根からまっすぐ谷へと向かい、川沿いに西進しています。とにかく西をめざせば文明に出会えると信じていたのです。彼らのその判断は実を結び、村人に発見されることになるのですが、それもこれも方角を正しく認識していたからに他なりません。

 墜落地点も幸いしたでしょう。雪の積もったゆるやかな谷地だったため、墜落時点では生存者の方が多かったほどでした。それに森林限界を超えた高度は、厳しい寒さを遭難者に突きつけましたが、木々による機体の破滅的破壊は免れることができ、視界も開けていたため太陽による方角確認も容易だったでしょう。また、氷点下の気温は遺体の保持に適していたため、食料(人肉)の長期保存も可能でした。

 惜しむらくは、農村が思ったほど遠くないという事実にもっと早くに気づき、いち早く遠征隊を西に向かわせていればもっと多くの命が助かった可能性があることです。しかし、それを望むのは詮無いだけでしょう。なぜなら遭難した際の鉄則は「まずそこを動かずに体力を温存し、救出を待つ」ということだからです。彼らが行動を起こしたのは捜索が打ち切られたことを知ったからであったのは、当然の判断であったといえるでしょう。

 現在墜落地点には「Memorial e Cruz Mestre記念公園」として記念碑が立ち、トレッキングコースになっているそうです。Googleマップを見ると、サン・ホセ川沿いには当時無かったであろう道路や発電所まで確認することができます。遭難者が歩いた行程のかなりの距離を車で行くことができるようになっているようです。

Memorial e Cruz Mestre
墜落現場は「Memorial e Cruz Mestre記念公園」として記念碑が置かれている。

 ところで日本では山で遭難した際、谷に降りて川沿いを下山するというのは「一番やっていはいけない悪手」とされています。急峻で複雑な地形の多い日本では、谷川はやがて滝や渓谷に行き当たり、そこを踏破するには通常の登山装備では不可能。もし無理して踏破しようとすると、足を滑らせて骨折したり、降りることのできない断崖の滝へ出てしまうからです。ですので彼らの真似をせず、見晴らしの良い尾根に登って現在位置を確認、尾根なら携帯の電波も拾いやすくなるので、救助を要請し、その場を動かず待ちましょう。日本で起こる遭難の多くが「下山時」に「道迷い」し「谷へと迷い込み」「滑落などで動けなくなり」「そのまま低体温症で死亡」という事例が多いということは一般常識として知っておきましょう。