チャウシェスクの軍事裁判
簡易的な軍事裁判にかけられるチャウセスク夫妻。この直後死刑判決が出され、ただちに銃殺された。

ルーマニア革命wikipedia:ルーマニア革命 (1989年)より)

概要

 1989年、東ヨーロッパ各国の共産党政府が相次いで崩壊した東欧革命において武力により共産党政権が打倒された唯一の革命である。
 ルーマニア共産党書記長のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャの急死(銃撃による死亡)をきっかけに、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。革命軍は1週間で全土を制圧してチャウシェスクを処刑し、非共産党政権を樹立した。

革命の推移

発端

 1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る。このデモは、人権活動家で改革派教会(カルヴァン派教会)のテケーシュ・ラースロー[1]牧師がティミショアラから僻地のシラージ県シラージセグ村メニェーへの追放処分を受けたことに対して、ルーマニア国籍のハンガリー人たちと彼らに共感するルーマニア人たちが行なった抗議デモであった。
 ティミショアラを含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、トランシルヴァニアと共に1918年のオーストリア=ハンガリー二重君主国の崩壊を受けて1920年に締結されたトリアノン条約によりハンガリー王国からルーマニア領に編入された地域であった。ルーマニア国民となったハンガリー人住民に対するルーマニア政府の弾圧は苛酷で、ハンガリー人であるテケーシュの国内追放処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。

勃発

12月21日
 首都ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。
 ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺された。10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い)。広場はパニック状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送で生中継されていたがチャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見てたじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された(その後、放送は再開された)。
 集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかしこの政治集会に対しても治安警察が発砲し、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが、車両で抗議集会の妨害をする程度にとどまり、直接市民を殺傷することはなかった。市民の政権に対する不満は頂点に達した。
 この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防相ワシーリ・ミリャに対し、軍隊による群集への発砲を指示した。ミリャはこの命令を拒否したためチャウシェスクの逆鱗に触れ、その後ミリャは自室で死体となって発見された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防相が自殺した」と報じたものの市民には「処刑された」との噂が広まった。軍首脳の中にも国防相処刑説が広がり、大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。

混乱と逃亡

12月22日
 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及び、チャウシェスクはブカレストから脱出し、政権は崩壊した。反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、テレビ・ラジオ局を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。
 チャウシェスクは非常事態宣言を出し事態に対応しようと試みるが、国軍が革命勢力に参加したことで頓挫し、国民の館の屋上から妻のエレナや側近と共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送の他、世界各国のマスメディアで映像が流されるお粗末なものであった。
 一見盤石な支配体制を築いていたと思われていたチャウシェスクは、この逃亡劇において多くの裏切り行為に遭った。ヘリコプターパイロットのマルタン中佐はわざと機体を上下に揺らして「レーダーに捕捉され、対空砲火を受けた」と嘘をついて夫妻の逃亡を諦めさせようとした。やむなくヘリでの逃亡を諦めたチャウシェスクは着陸させ、陸路での逃亡を試み、たまたま車を運転していた地元の医師のニコラエ・デカを脅して逃亡を手伝わせた。しかし、革命を知っていたデカは面倒ごとに巻き込まれたくないと思ってエンジントラブルを装ってすぐに一行を降ろした。再び一行は車を洗車していた工場労働者のニコラエ・ペトリソルを脅し、トゥルゴヴィシュテへ向かった。走行中チャウシェスクはラジオで情報収集を試みたが、既にメディアが救国戦線に乗っ取られたことを悟ると激高したという。ペトリソルは街の外れにある農業施設まで彼らを案内した。施設の所長は匿うふりをして一行を一室に案内して監禁し、近くに駐屯していた軍(デカの通報を受けて事前に情報をつかんでいた)に身柄を引き渡した。
 その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任し、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権を批判して投獄されていた政治犯も釈放された。夜になると、ブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい市街戦が発生し、多数の死傷者が出た。

12月23日
 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用して国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請し、大統領派の掃討に出る。また市民も銃をとり大統領派に応戦する。混乱により情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるが、これを拒否する。また、ソ連(ソ連軍)が事態の沈静化の為に介入するが、これも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が逮捕され、18時に自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。
 以前のソ連であれば、(比較的穏健派のフルシチョフが最高指導者の時代でさえ)こうした反政府クーデターへのソ連軍の介入は「問答無用」であり、相手国の受け入れの有無はソ連が後から「あったことにする」のが通例だった(プラハの春など)。しかし、この当時のソ連の最高指導者であるゴルバチョフは自らの新ベオグラード宣言による対外公約を守り、衛星国であった東欧の共産国に対しても強権を振るうことはほとんどなかった。

崩壊

12月24日
 ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。

12月25日
 チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で特別軍事法廷が開かれ、夫妻は大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された。
 救国戦線は当初軍事裁判ではなく、ブカレストに夫妻を連行して通常裁判を実施する予定であった。しかし、秘密警察が基地に攻撃を仕掛け、激しい銃撃戦が展開されたため(後述)、夫妻が奪回されることを恐れた救国戦線は対応を急いだのであった。また生存説が流布される事を危惧した救国戦線は、処刑された夫妻の死体の映像をメディアに公開した。
 銃殺を命じられた軍人3人のうち、2人はパニックを起こし、イオネル・ボエルが引き金を引いた。革命成就後、秘密警察による報復を恐れる住民は彼との関わりを避け、妻とも離婚した。「正しいことをやったと思っているが、なぜ私が選ばれたのか」と述懐している。

12月26日
 救国戦線評議会が新指導体制を発表し、暫定政権を樹立する。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。

革命後

 チャウシェスクの処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受け、暫定的な救国戦線評議会による革命政権を経て、1990年5月20日にルーマニアで初となる多数政党制による自由選挙が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われ、イオン・イリエスクが大統領の座に就いた。
 その後、イリエスクは1990年から1996年、また2000年から2004年にかけて大統領を務めたが、革命に至るまでの経緯の中には不明な点も多く、市民団体より司法当局に真相解明を求める声が絶えなかった。2018年12月、検察当局は「革命の最中にテレビや記者発表を通じデマを広め混乱を生じさせた結果、800人以上の死亡者を出した責任がある」として、人道に対する罪でイリエスクを起訴したと発表した。しかし既に死亡した関係者も多いことから、公判での立証は困難を極めるとされている。
 他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得したが、ルーマニアでは革命後に共産党が消滅し、共産党そのものが一時期非合法となった。ルーマニア共産党関係者の中には、救国戦線に参加して政治生命を保った者がいる一方で、「社会主義労働者党(ルーマニア語版)」という政党が共産党の後継政党を称したが、広く支持を得るには至らなかった。

銃撃戦が発生した理由

 一連の革命の中には経緯が不明な点も多いが、中でも12月22日にチャウシェスクが共産党本部から脱出した後に銃撃戦が発生した理由は最大の謎とされている。
 革命後のイリエスク政権で国防相を務めたヴィクトル・スタンクレスク(英語版)将軍(2016年死去)の証言によって、救国戦線側によるでっち上げとの疑惑が浮上した。


感想

 一般的に独裁政権下で富を一方的に搾取し、贅沢の限りを尽くしたチャウセスク夫妻が「悪」で、その政権が倒され、処刑されたのだからルーマニアには平和が訪れたと思いがちですが、実態はそうではなく、今だに混乱期にあるようで、最近では「チャウセスク時代の方が良かった」と国民に言われる始末です。

 それにはいくつか理由があるように思うのですが、実はチャクセスクは大統領就任時は善政を敷き、国民の支持も厚かったんですね。ところがアジア諸国、つまるところ文化大革命真っ最中の中国と北朝鮮を訪問した際に感化されてしまい、個人崇拝と富の独占を開始。このことが国民の不満を呼び、革命へと至るのですが、そのきっかけが国防相の死であったことはあまり知られていません。それからの経緯をみてみると、これは「革命」ではなく、「革命の名を借りた軍部のクーデター」であったことがよくわかります。国民はそれに利用されただけです。日本のマスコミは肝心な部分を伝えていないので勘違いしたままの人も多いでしょう。

 結局チャウセスク時代の権力側(軍部)が、そのまま権力の座に居座っているのだから、民主化されたと言っても権力内の民主化勢力が権力を掌握したに過ぎず、一般的なイメージである「ルーマニア革命=市民革命」とは言えません。正しくは「ルーマニア政変」と呼ぶべきでしょう。そう考えればチャウセスクがろくな裁判もなしにさっさと処刑されたのも頷けます。「政変」であるなら、政権内のチャウセスク派に早急に抵抗をやめさせるためには、そのトップを亡きものにするのが一番手っ取り早いですからね。

 ところでこのチャウセスク夫妻。個人的には「超極悪人」という印象はないです。「限りなく稚拙で無能な人」という感じ。中国や北朝鮮への訪問で何を学んだか詳細はわかりませんが、「共産主義政権のトップは、権力を私利私欲に使っていいんだ!」程度のことでしかないなら、結局そのことが「裸の王様」状態を作り出し、政権を追われるような事態を自ら招いてしまったのでしょう。逮捕される瞬間まで自分が部下に裏切られ、処刑されるとは考えてもいなかったように思います。もしそうならあまりにも稚拙で短絡思考だと思わざるを得ません。

 その「稚拙さ」は夫人では更に顕著です。無学だった夫人は国家政策として避妊と堕胎手術を禁止した上に、法律で女性に5人以上子供を産むことを強要しました。このことは後に「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる大量のストリートチルドレンを生むことにつながります。「自分が子供好き→女性に子供を多く産ませたい→避妊と堕胎手術を禁止」というのは現実無視の短絡思考の極みでしょう。

 ちなみにチャウセスクの次男であるニク・チャウシェスクの愛人は当時ルーマニアの国民的ヒロインだったオリンピックの金メダリスト、ナディア・コマネチでした。もちろんこの関係はコマネチの本意ではなく、権力を笠にした強制だったわけですが、そのニクも革命時、愛人と共に車で逃げようとしたところを革命軍によって捉えられ、国営テレビで罵られる姿を晒すことになりました。それを見た国民は大いに溜飲を下げたそうです。その後ニクには20年の懲役刑が与えられましたが、1992年に肝硬変で死去しました。父親が父親なら息子もこのボンボンぶり。やはり「無能」という印象しかありません。

 チャクセスク夫妻の裁判の模様や処刑後の死体を映した動画はこちらで見ることができます(閲覧注意)。ルーマニアは現在、比較的治安は安定しているようですが、旅行先としてはあまり人気がないようです。それもこれも「ルーマニア日本人女子大生殺人事件」という非常に胸糞の悪い事件が印象を悪くしています。この事件もルーマニア革命(政変)とともに、日本人にとっては忘れてはならない事件ですね。