Theodor_Edler_von_Lerch
レルヒ少佐

テオドール・エードラー・フォン・レルヒwikipedia:テオドール・エードラー・フォン・レルヒより)

 テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(Theodor Edler von Lerch, 1869年8月31日 - 1945年12月24日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。最終階級は陸軍少将。日本で初めて、本格的なスキー指導をおこなった人物である。

 訪日時は少佐で、少佐の時にスキーを日本に伝えたため、日本国内では一般的には「レルヒ少佐」と呼ばれる。後に中佐に昇格したあと日本各地を回ったため、北海道などでは「レルヒ中佐」と呼ばれる。

 西ドイツで国防相、追放者・難民・戦災者相、ドイツ連邦議会議長を務めたカイ=ウヴェ・フォン・ハッセルは母方の甥にあたる。

経歴

 1869年、オーストリア=ハンガリー帝国を構成しているハンガリー王国北部のプレスブルク(現スロバキアの首都ブラチスラヴァ)にて、軍人の家庭に生まれる。幼少期の愛称は「テオ」。10歳の時、福音学校に入学。それから3年後、家族はプラハに移るが、レルヒは一人ウィーンのギムナジウムに転学する。それから3年後、家族のいるプラハへ行き、ドイツ系ギムナジウムに転学。生活態度は極めて真面目で、3年間首席を通した。

 1888年、ウィーナー・ノイシュタットのテレジア士官学校(英語版)に入学し、1891年少尉に任官。奇遇にも、父が勤務していたプラハの歩兵第102連隊に配属先された。配属当初から知的才能、責任感、知識、指導力に秀で、上官や部下への人当たりもよく、勤務評定で高い評価を得ていた。1894年10月、士官学校の幕僚育成コース試験に合格。教育課程修了後、チェルノヴィッツの第58歩兵旅団附参謀、レンベルクの第11歩兵師団附参謀、マロシュヴァーシャールヘイの第62歩兵旅団第5分遣中隊附を経て、1900年インスブルックの第14軍司令部附参謀となった。山岳地帯の同地で、ビルゲリー大尉が行っていたスキー訓練に興味を持つようになる。

 1902年11月、戦争大臣の交代とともに、戦争省参謀本部作戦行動班附に抜擢される。12月、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキー(ドイツ語版)に師事。1903年になると南チロルでの国境警備に派遣された。この環境はレルヒにとってスキーの研究に絶好の地であり、戦争省の建物が道を挟んでアルペンスキークラブ事務所と隣り合っていたことも、レルヒがスキーにさらなる情熱を燃やす要因となった[4]。

ツダルスキーは市民のみならず軍隊にもスキーの重要性を説いており、1890年代から一部の部隊に指導を行っていた。しかし、当時の軍内部ではスキーを娯楽と考える意見が多数派で、導入に懐疑的だった。

 そんな中、1906年2月、シュタイアーマルク西南部ムーラウで山岳演習を行っていた騎兵部隊が雪崩に遭遇。スキーを使って救出に参加したレルヒは、軍高官と接点の多い参謀本部附という自身の立場を利用し、直接的に、あるいは友人知人を介してスキーの重要性を軍高官らに説いて回った。参謀総長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ中将は彼の働きに応え、スキーの導入を正式に決定。1908年2月、チロル地方のベックシュタイン山麓で最初の軍隊によるスキー講習会が開催され、レルヒは講師として献身的に指導に加わった。

来日

 日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月30日に交換将校として来日。八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)にある第13師団歩兵第58連隊(第13師団長・長岡外史、歩兵第58連隊長・堀内文次郎)の営庭や、高田の金谷山などで指導をおこなった。

 1911年(明治44年)1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。4月にはエゴン・フォン・クラッツァー(クラッセルとも)とともに富士山でスキー滑降を行う。

 1912年2月、北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市を訪問。4月15日21時30分、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るため倶知安町に到着。16日午前5時の出発を予定していたが、雨のため1日延期し17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行った。レルヒの羊蹄登山には小樽新聞・奥谷記者も同行している。

 明治天皇の崩御間もない10月21日、レルヒは日本各地の旅行に出た。下関から箱根、名古屋、伊勢、奈良、京都、広島を回り、下旬に門司港から朝鮮半島へ向かった。その後日本から中華民国に渡り満州、北京、上海へ、さらにイギリス領香港を経て12月にイギリス領インド帝国の演習を観戦した後、年明けの1913年1月に帰国した。

 なお、レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得しており、日本で伝えたのは杖を1本だけ使うスキー術である。これは、重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果である。なお、ほぼ同時期に普及した札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっていた。1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退した。

帰国、そして戦争

 帰国後は戦争省附を経てメッツォロンバルドの第14師団隷下第4混成山岳連隊第1大隊長、スクタリの歩兵第87連隊分遣隊長を任ぜられる。

 オーストリアがセルビアに宣戦布告したことで勃発した第一次世界大戦では新設された第17軍参謀長に任ぜられ、ワルシャワに派遣。ロシア帝国陸軍と交戦するも物量に勝る敵に後退を余儀なくされ、1年間カルパティア山脈に留まる。1年後の3月、ガリツィアの戦闘で大敗。8月にはブレスト=リトフスク(現ブレスト)まで盛り返すも、再度反撃を受けシュトルフィーまで後退。16年3月以降は南に派遣され、イゾンツォにてイタリア王国と交戦。その後はドイツ帝国陸軍軍集団「ループレヒト王太子」(de)の所属として西部戦線に向かいフランドル地方などを転戦したが、詳細は不明。この戦線での負傷により退役を余儀なくされた。

 退役後、貿易会社を立ち上げ業務取締役の役職に就くが、わずか1年で役職から身を引く。以降はチロル地方での勤務や日本への旅行を題材に、講演活動などを中心とした生活を送った。満州事変勃発後の1932年、戦争省でのキャリアを活かし「オーストリア軍事新聞」などの軍事誌に極東情勢を中心とした記事や論文を寄稿し、軍事専門家として活動する。しかし敗戦国であるため軍事恩給もなく、その暮らしは財政面でかなり苦しかったという。

 1945年12月24日、連合軍による軍政期中のオーストリアで糖尿病のため死去。76歳没。ウィーンの共同墓地に葬られた。

 現在、新潟県上越市高田の金谷山には日本スキー発祥記念館が設置され、レルヒの業績を伝えている。また毎年2月上旬に「レルヒ祭」をはじめとした各種記念イベントが開かれている。2010年はレルヒが日本にスキーを持ち込んで100年になることもあり、11年にかけて各種記念事業が開催された。


感想

 おそらくスキー愛好家にとっては常識的な知識なんでしょうけど、私は初めてこのレルヒ少佐(中佐)の存在を知りました。日本がレルヒのスキー技術に着目したのは例の八甲田山雪中行軍事故があったためで、その教えを受けたのも帝国陸軍の将校であったというのも当然といえば当然でしょう。当時は「全てが軍事優先」でしたからね。

 明治から大正、昭和にかけてスポーツとしてのスキーは時代は変わって戦後、レジャーとしてのスキーが定着するのですが、それはバブル華やかしき1990年代に頂点を迎えます。このころは猫も杓子も「夏はビーチ(『彼女が水着に着替えたら』)、冬はスキー(『私をスキーに連れてって』)」でしたが、趣味嗜好が細分化した現在では「もうみんなやってるよ、やってないなんて遅っくれってるー!」的なノリはあり得ないし、理解もできないでしょう。

 平成に入り、青息吐息だったスキーに救世主が現れます。いわゆる「インバウンド需要」です。北海道をはじめとする日本の雪質の良さとアクセスのしやすがYouTubeを経由して世界に知れ渡り、今ではニセコは外国人の町と化しているそうです。

 人口減少が避けられない今後の日本にとって、この「インバウンド需要」は日本経済を支える上で重要だと思われます。あまりにも急激に増えすぎて観光公害も叫ばれていますが、都市部はともかく、疲弊が激しい地方にとって、活性化の選択肢は「公共事業」「大規模事業者の誘致」そして「観光地化」以外の選択肢はありません。そしてその3つ全てに共通するのはインフラ、特に高速道路や高速鉄道網の整備です。日本の国土にくまなくこの両者を張り巡らし、受益を等しく日本各地に行き渡らせる。もちろんストロー効果や不採算事業の切り捨てなどデメリットも存在していますが、そんなことを言っていられる余裕はありません。前述した「趣味嗜好の細分化」は日本人全てを満足させる「何か」がすでに存在していないことを示しています。ニッチでリッチ(狭いニーズに大金を投下する)な層にアプローチしない限り、企業も自治体も生き残れないでしょう。

 もう誰も彼もが「私をスキーに連れてって」などとは言う時代ではありません。それを言うなら時代は「私は〈好き〉にしかお金使いません」です。それは世界中のスキー愛好家のニッチなニーズにピンポイントにフィットした、ニセコの隆盛が如実に物語っていると私は思います。

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「大日本スキー発祥之地」記念碑(新潟県上越市金谷山スキー場)